2008年11月16日

千秋太后(チョンチュテフ)


千秋太后KBSテレビで現在放送中の「大王世宗」の後を受けて、2009年1月3日からスタートする大河歴史ドラマ。KBSでは「武人時代」以来の高麗王朝時代が舞台となる。
ミレニアムの2000年からスタートした高麗三部作のうち、第一作「太祖王建」、第二作「帝国の朝」の続きと言える。第四代光宗(クワンジョン)の次の世代の王族たちが繰り広げる宮廷ドラマである。

主人公の千秋太后に扮するのは、「海神」以来の時代劇に出演するチェ・シラ(写真左)。相手役の金致陽(キム・チヤン)を演じるのはキム・ソックン。歴史の歯車を動かしたキー・パーソンの康兆(カン・ジョ)役はチェ・ジェソンが演じる。チェ・シラとは「黎明の瞳」以来の共演となる。演出には、まだ新鋭のシン・チャンソクPDとファン・イニョクPDが当たり、脚本は、ソン・ヨンモク、イ・サンミン、カン・ヨンナンの共同執筆となる。
他の出演者は、イ・ドックワ、シネ、キム・ホジン、ヤン・グムソク、ホン・イニョン、イ・チェヨンなど。
当初は2008年11月22日に放送開始の予定であったが、主演のチェ・シラが乗馬の練習中に落馬し、全治2週間の怪我をしたために遅れる。

高麗時代の風俗、倫理観

次の儒教的朝鮮王朝時代とはかなり様相が異なっていた。
先ず女性の地位について見ると、この時代の女性はその地位と権利がかなり保障されていて、女性の性も抑圧されていなかった。女性が馬に乗って駆け回ることも普通であった。朝鮮王朝時代は儒教による男尊女卑の強い社会で、女性は様々な面で抑圧されていた。
次に男女の婚姻を見ると、朝鮮時代には同本同姓の男女の結婚は絶対に許されなかった。この決まりは、現代に入っても数年前まで韓国の法律となっていた。兄弟姉妹や従兄弟姉妹、叔父叔母などの近親との婚姻はもってのほかで、遠い親戚同士でも許されなかった。だが、高麗時代には普通に行われていた。千秋太后も従兄弟である第5代景宗の第三王妃であった。また、彼女の妹が第四王妃の献貞王后で、後に姉妹が王位継承をめぐって争うことになる。
高麗王朝を建国した太祖・王建は29人の女性と政略結婚し、その腹違いの子供たち同士や叔父と姪との間の王族結婚が頻繁に行われ、複雑な家族関係を作り出していた。

千秋太后

太祖・王建(ワン・ゴン)の孫娘で、本名はファンボ(皇甫)・スという。王建の第四夫人皇甫氏は有力豪族の娘で、王子ワン・ウク(王旭)を産んだ。千秋太后の父親である。王女たちは母方の姓を名乗っていたようである。
成長して同じく王建の孫である第五代景宗の第三王妃・献哀王后(ホネワンフ)となり、後の第七代穆宗(モクチョン)の生母となる。18歳の時、夫の景宗が亡くなり、未亡人となった。景宗の後継者第六代成宗は、千秋太后の兄であった。
夫亡き後、彼女が居住する千秋殿に外戚の金致陽(キム・チヤン)が頻繁に出入りするようになり、醜聞が広まるや、成宗が金致陽を遠島に処した。成宗が世継ぎのないまま死去すると、妹である献哀王后の幼い息子が即位し、第七代穆宗となった。献哀太后が幼い国王を補佐して摂政になると、起居していた宮殿の名称から千秋太后(チョンチュ・テフ)と呼ばれる。この時から12年間、彼女が天下に号令する波乱の摂政時代が始まった。配流地から金致陽を呼び戻し、自分の愛人とした。二人の間に生まれた子供を穆宗の後継者にしようと考える。
儒教に心酔し、中国・宋との事大政策を推し進めた兄の成宗に反して、千秋太后は反儒教的立場をとり、宋とは一定の距離を置き、新興強国の契丹との友好政策を進めた。彼女が執権した12年間は契丹からの侵攻はなく、高麗は安泰であった。
千秋太后が目指していたのは、祖父王建の大高句麗主義を継承し、北方への進出であった。そのために、儒学者たちより祖母方の豪族たちを政治的基盤とした。儒教勢力は千秋太后と穆宗を王座から引き摺り下ろそうと機会を窺った。
穆宗12年、千秋殿で火災が発生すると、国境に配置されていた精鋭軍を率いて、康兆(カン・ジョ)という千秋太后の忠僕であった武将が王宮に戻ってきて、恋敵でもある金致陽とその一党を討ち滅ぼし、千秋太后と穆宗をも王宮から追放した。儒教勢力が支持する大良院君(テリャンウォングン)を擁立したが、それが第八代玄宗(ヒョンジョン)で、千秋太后の妹の献貞王后が生母であった。廃王となった穆宗は殺害され、千秋太后は皇甫一族の故郷黄州(ファンジュ)に逃れ、そこで21年を生き延びた後、66年の波乱の生涯を閉じた。

儒教勢力との政争に敗れた千秋太后は、歴史に不倫の女性、権力欲に溺れた悪辣な王妃と記録されたまま、歴史の闇の中に消えていった。そんな彼女を見直し、王建の理想を引き継ぐことを夢見ていた高麗の一大女傑ではなかったのか、と問いかける。

金致陽(キム・チヤン)

ファンボ(皇甫)・ス(後の千秋太后)の生涯の恋人。滅亡した新羅王族の後裔で、新羅の再興のために高麗を滅ぼそうとしてファンボ・スに接近したが、彼女を本当に愛してしまい、苦悩する。結局、自分の目的を果たせずに、政敵で恋敵でもある康兆によって悲劇的な死を迎える。

康兆(カン・ジョ)

契丹に滅ぼされた渤海(698-926)の末裔として高麗に流れ着いて武将になった。ファンボ・スの時から千秋太后を慕い、守り続けて来たが、最終的に彼女を裏切る羽目になり、苦悩する。彼にとって愛は生涯の祝福であると共に呪いでもあった。穆宗を殺害し、千秋太后を追放することによって契丹の第二次侵攻の口実を作ってしまい、契丹軍との戦いに敗れて生け捕りになり、殺された。

契丹(907-1125)

唐末の907年、耶律阿保機が契丹系の諸部族を統合して建国し、その後、国号を遼と改めた。926年、高句麗系の渤海を攻め滅ぼした。その流民の多くが高麗に流れ着いたが、その中に康兆の一族も含まれていた。

中国の宋を征服するのに邪魔な親宋の高麗を三度も侵攻した。
第一次侵略は成宗治下の993年。80万の大軍で高麗に攻めてきたが、時の高麗宰相徐熙(ソ・ヒ)との外交舌戦に負けて、撤退した。
高麗で成宗が亡くなり、その甥の穆宗と千秋太后が親契丹政策を掲げると、両国の関係は好転した。
12年後の1009年、康兆が政変を起こし、穆宗を退位させてその従兄弟の玄宗を即位させると、翌1010年、康兆を問罪するという口実で40万の大軍を高麗に派遣した(第二次侵略)。苦戦の末に康兆を生け捕り、殺害した。高麗との講和が成立すると撤退した。
高麗王が講和の約束を守らないという理由で、1018年、10万の大軍で三度目の侵攻を行った。高麗側の名将・姜邯賛(カン・ガムチャン)の戦略に負けて敗走するが、翌年二国間の使節往来が再開し、千秋太后以来の国交が回復した。高麗は契丹の年号を受け入れ、宋との関係を絶つことにした。
この百年後の1125年、契丹は女真族系の金に滅ぼされた。

宋(960-1279)との関係

高麗は建国以来、中国の統一王朝である宋を大国として、その政治・社会制度や文化を受け入れてきた。宋で政治理念として定着した儒教も高麗に徐々に浸透し始めた。仏教を国是とする高麗においては、儒教は学問のレベルで発展していった。高麗末期には儒生たちが政治勢力に成長し、朝鮮王朝建国の母体となった。
posted by rekishinootoshimono at 23:09| Comment(0) | TrackBack(1) | 韓国ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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